冬になるとおこた(こたつ)で食べる、福井の冬の銘菓「水ようかん」
「水ようかん」と聞いたら、どの季節を思い浮かべますか?
福井では水ようかんを、「冬」に食べる風習があるんです。
羊羹のイメージを裏切る、水分たっぷりでとろけるような柔らかさと甘さ。箱のデザインや味のバリエーションもお店によりさまざまで、皆で水ようかんの食べ比べに花を咲かせることも。
「冬水ようかん」は、福井の食文化を支える、代表的な街の風物詩の1つなのです。
別名「丁稚(でっち)ようかん」。
大正、昭和の丁稚奉公の時代より続く、福井の庶民の銘菓。
福井の冬水ようかんは別名「丁稚ようかん」とも言われており、大正・昭和の丁稚奉公の時代から、庶民の日常の味として親しまれてきました。
水ようかんの発生の由来は諸説あり、
・(京都に)奉公に来ている丁稚が(福井へ)里帰りする際に持たせ、その結果広まった。
・奉公先の練りようかんを改良し、丁稚用のようかんとして作ったのがはじまり。
などが言われているようです。
実際、京都や岐阜、滋賀といった近畿中部圏などでも羊羹を冬に食べる習慣があり、近畿圏の丁稚奉公の文化の名残なのかもしれません。
木箱一枚流しの時代
福井の冬水ようかんの一般的な大きさは、A4サイズ、高さ2センチほどの平箱で、蓋を開けると透明なフイルムの下に切れ目の入った水ようかんが入っています。付属の竹ヘラがついており、切れ目に沿ってスーッとすくい、ヘラに乗せてつるりと食べるのがお決まりのスタイル。
そのかたちはいつから始まったのでしょう・・?福井県内のお菓子に関するお店が加盟する「福井県菓子工業組合」様にお話を伺いました。
「特に資料や文献というのは残っていないのですが、伝え聞く話によると、1950年代当時は町の八百屋さんや、駄菓子やさんの軒先で、漆の木箱に流して、1枚いくら、もしくは1列すくって5円でお菓子として売られていました。昔は和菓子は一般的に高級品だったのに対し、水ようかんはコストも味も庶民の駄菓子的な存在だったようです。」
1960年代〜現在の平箱へ
店舗ごとに違う様々なパッケージも特徴の一つ
「1960年代になり、この頃より時代の流れに合わせ、生産しやすい紙製に変更になりました。水が漏れないように内側にアルミ箔を張り付けた深い貼り箱などもあったようです。
そして改良を重ねたのち、1970年代には現在のA4サイズ、高さ2センチほどの平らな厚紙の紙箱になりました。当時は10枚、20枚単位でひもでくくって売られており、年末年始の親戚の集まりやお酒の後に出したり、広く普及していきました。
現在では時代の流れに合わせ、配送しやすいプラスチックの容器になったり、食べきりサイズでコンビニにも並ぶようになっています。」(福井県菓子工業組合 株式会社カリョー 新谷代表取締役)
近年になって福井の銘菓として見直され、「冬に食べるようかん」として全国的にも有名になりつつある福井の冬の水ようかんですが、お菓子の無かった昔は「こたつとみかんと水ようかん」が定番の、冬の庶民の味だったのです。
鍵は福井の気候にあり!?
福井の歴史・気候・県民性が深くきざまれた「福井の冬のみずようかん」
福井の冬水ようかんは一般的な練羊羹と比べて糖度が低く作られています。
糖度が低いということは、常温では日持ちせず冷蔵が必要、つまり保存が効かないということ。冷蔵庫がなかった昔は、室外の廊下や納屋を冷蔵庫がわりにして保存していました。
福井の冬の気温は0〜10度、室内温度も10度台。
気候も厳しく、福井は元々職人が多い産業の町で県民性もまじめ。
庶民の味的な水ようかんは、経済的合理性のあるものとして、好ましく受け入れる風土が福井にはあったのではないかと思われます。
「福井の冬水ようかん」が生まれ、広まったのには、こういった福井の歴史や気候と県民性があったのではないでしょうか。